2026年のカンヌライオンズで、ひとつの広告賞が新設されました。評価するのは作品ではなく、それを生み出す企業の人材と組織の力そのものです。これは、日本で進む人的資本経営や人的資本開示と地続きの動きだといえます。世界最高峰のクリエイティブの祭典が示した変化から、人的資本のこれからを読み解きます。
2026年6月、カンヌライオンズの授賞式で、ビール大手アンハイザー・ブッシュ・インベブ(AB InBev)の名が呼ばれました。受賞したのは、特定のCMでもポスターでもありません。同社が「Creativity at Scale」と名づけた、良い広告を生み出し続けるための社内の体制そのものです。しかも評価された部門は「人材と職場文化」。世界最高峰のクリエイティブの祭典が、作品ではなく人と組織を主役に据えたというわけです。
応募が減った年に生まれた新部門
2026年のカンヌは、第73回を迎えました。ただし例年とは様子が違います。応募総数は約2万点と、前年から25.5%の減少。背景にあるのは、昨年発覚した不正です。AIで加工した映像や、実在しない成果を装った応募が問題となり、今年から審査の基準が大きく見直されました。成果には証跡が求められ、経営層による保証も条件に加わっています。数を追う祭典から、信頼を問う祭典へ。その空気の変化のなかで、Creative Brand部門は新設されました。
興味深いのは、この二つの動きが同じ方向を向いていることです。何が本物の成果かを厳しく問う姿勢と、何を成果とみなすかを作品から組織の力へと広げる姿勢。どちらも、表面的な見栄えではなく、その裏にある実体を評価しようとしています。今年のカンヌを一言でまとめるなら、見えるものから、見えにくいものへ、評価の重心が移った年だといえるでしょう。
作品ではなく、作品を生む力を評価する
広告賞はこれまで、出来上がった作品を評価してきました。一本のCMがどれだけ人の心を動かしたか、一枚のポスターがどれだけ記憶に残ったか。評価の対象は、つねにアウトプットでした。
2026年に新設されたCreative Brand部門は、その前提を変えています。カンヌはこの部門を、優れた仕事を必然的に生み出す仕組みや文化、リーダーシップ、基盤を評価し、創造の潜在力を持続的な競争優位へと変える営みを称えるもの、と位置づけています。評価するのは作品ではなく、作品を生み出す企業の内部の力です。
鍵になるのは持続性。応募するには、その取り組みが少なくとも12カ月にわたって実装されていることが求められています。単発のヒット企画や、ある四半期だけの好成績は対象になりません。複数年、複数ブランド、複数の地域にまたがって、良い仕事が繰り返し生まれる状態をつくれているかが問われているのです。
たとえるなら、一本のホームランではなく、毎年ホームランを打てるチームづくりを評価する賞といえるでしょう。派手な一発よりも、成果が偶然に頼っていないことのほうを高く評価する。ある仕事が優れているかではなく、優れた仕事が生まれ続ける状態にあるかどうかを見る。評価の問いを「作品」から「状態」へと移したこの設計は、これまでの広告の世界にはほとんど例がないものでしょう。
アンハイザー・ブッシュ・インベブは、なぜ勝てたのか
受賞したAB InBevは、バドワイザー、コロナ、ステラ・アルトワなどを抱える世界最大のビール会社です。日常的に目にするブランドを世界中で展開しており、広告の物量も膨大です。もちろん、今回評価されたのは出稿量ではありません。
同社は2021年から、創造性を成長戦略の中心に据える方針へと舵を切ってきました。クリエイティブを一部門の仕事ではなく、事業成長を左右する経営のテーマとして扱う。作品の良し悪しを感覚ではなく指標で測り、その結果を次の意思決定や投資配分に反映させる。こうした仕組みと文化を、数年がかりで組織に根づかせてきました。今回のCreative Brand部門グランプリは、その積み重ねに対する評価でした。
受賞が「人材と職場文化」という切り口だったことにも意味があります。評価されたのは、優れた人材をどう採用し、育て、力を発揮できるように組織を設計しているか、という点でした。作品の良さは、突き詰めれば、それを生む人と、その人たちが働く環境の質に行き着きます。カンヌは、完成した作品ではなく、その源流にある人と組織にまで評価の目を向けたことになります。
象徴的なのは、同じ2026年に、史上初となる年間最優秀マーケター(Creative Marketer of the Year)の3度目の受賞も果たしている点です。つまり同社が評価されたのは、ある年のたまたまの快進撃ではなく、良い広告が生まれ続ける組織そのものが、再現性のある強みとして認められたというわけです。ここでも効いているのは、一発の凄みではなく、続けられる仕組みという評価軸でした。個人の才能に依存した成功は模倣もされやすく、長続きもしません。組織の力として設計された創造性は、競合が簡単には真似できない資産になるはずです。
これは、もう一つの「人的資本開示」だ
目に見えにくい内部の力を可視化し、評価の対象に据える。この発想には、人事や経営に関わる人ほど既視感を覚えるのではないでしょうか。財務諸表には表れない人と組織の力を、どう測り、どう示すか。日本で進んできた人的資本経営の議論と、同じ構造をしているからです。
日本では、内閣官房が2022年に人的資本可視化指針を示し、2023年3月期の有価証券報告書から、人的資本に関する情報の開示が実質的に義務づけられました。国際的にはISO 30414が、人的資本の情報開示の枠組みを整理しています。そもそも人的資本という概念自体、Becker(1964)が、人への教育や訓練を「資本への投資」として捉え直したことに始まります。人の力を資本とみなし、可視化して評価するという流れは、いま世界的に加速しています。
カンヌがやったのは、この流れを、クリエイティブ産業のど真ん中で、賞という最も注目度の高い装置を使って実行したことです。そこには、日本の開示の一歩先を行く要素があるといえるのではないでしょうか。
日本の人的資本開示が、まず情報を出すことに軸足を置きがちなのに対し、Creative Brand部門は、その力が実際に成果を生み続けているかどうかを、12カ月以上の実装という条件で問うています。開示にとどまらず、証明を求めていることは再度注目しておきたい部分です。
日本企業にとっての意味
日本の人的資本開示は、義務化からまだ日が浅く、多くの企業は指標を並べる段階にあります。研修時間、女性管理職比率、エンゲージメントスコア。数字をそろえること自体に相応の労力がかかっているのが実情でしょう。指標を開示すること自体は前進ですが、それだけでは、その企業の人と組織が本当に強いのかどうかは伝わりません。
カンヌが示したのは、その先だといえます。人材や文化を開示するだけでなく、それが持続的に成果を生む力であることをどう証明するか。問われるのは、たとえば人的資本の指標を財務の結果とどう接続するか、一年だけの数字ではなく複数年にわたる再現性をどう見せるか、自社の人と文化が偶然ではなく必然として成果を生んでいると社内外に説明できるか、といった点になるでしょう。
AB InBevの受賞は、この問いに一つの答えを出した事例として読み取ることができます。創造性という測りにくいものを、数年がかりで測り、経営に組み込み、成果につなげてきた。その一連の営みが、世界最高峰の舞台で「資本」として評価された。人的資本経営を、開示のためのタスクではなく競争優位の源泉として捉え直すとき、この事例は有力な参照点になるはずです。自社の人と文化について、私たちは「開示」の段階にいるのか、それとも「証明」の段階に進めているのか。カンヌ2026は、その問いを投げかけています。
次回は、この評価軸の変化の背後で価値を動かしている力、特に、AIを取り上げます。フィルム部門のグランプリを手がかりに、AIが実行を担う時代に、人にしか残らない価値とは何かを考えてみましょう。










