健康経営のROIと形骸化|ホワイト企業の若手社員が深夜の公園を徘徊する理由

健康経営のROIと形骸化|ホワイト企業の若手社員が深夜の公園を徘徊する理由

「健康経営」は数多くのメリットを報告する研究がある一方で、形骸化と隣り合わせの施策でもあります。なぜそのような形骸化が起きるのか、どうすればそれを防ぎ、健康経営という樹に成る果実だけを手にすることができるのか。今回は「本当の健康経営」について考えます。

「健康経営」という言葉が、ここ数年で押しも押されもせぬ経営のキーワードとなっています。HUMAN CAPITAL+でもこれまで、

の2本の記事で、健康経営について考えてきました。社員の健康を福利厚生ではなく投資と捉え、戦略的に経営する――この考え方は、上場企業から中小企業の現場まで、徐々に浸透してきました。一昔前は健康と投資が結びつくことはありませんでしたが、今となっては多くの研究で「健康経営はROI(投資収益率)に直結する」ということが報告されています。

だからこそいわゆる「ホワイト企業」が、わざわざ厳しい数値目標を掲げてまで健康経営に取り組むのです。

しかし、その輝かしい数字の裏側には、経営層と管理職が直視しなければならない「不都合な真実」も潜んでいます。本稿では、健康経営とROIをめぐる実証データを確認したうえで、現場で起きている形骸化の実例、そしてそれを乗り越えた企業の取り組みを通じて、「本当の健康経営」とは何かを考えていきます。

社員の健康は、組織の生産性に通ず

健康経営と株価

健康経営銘柄は、「長期的な視点から企業価値の向上を重視する投資家にとって魅力ある企業」を可視化する制度として、すっかり定着した感があります。

例えば、野村證券の市場戦略リサーチ部の分析を見てみましょう。同部のリサーチによれば、健康経営銘柄に選ばれた企業群は、稼ぐ力の指標であるROE*が、東証全体の平均(TOPIX)をやや上回っています。

※自己資本利益率=株主から預かったお金をどれだけ効率よく利益に変えられているか

また銘柄選定が発表された当日には、市場全体の動きでは説明のつかない+0.15%の株価上昇が観測されており、これは統計的にも「偶然ではない」水準とされています。0.15%と聞くと地味な数字に映るかもしれません。しかし、これは「市場全体が動いた分」を差し引いたうえで、健康経営銘柄に選ばれたこと自体が押し上げた数字です。

派手な高騰ではないにせよ、株式市場が健康経営の取り組みを、長期的な企業価値の手がかりとして、静かに、しかし確実に織り込みつつある——その兆しが、データから読み取れるのです。

「元々業績が良いから、健康に投資する余裕があるだけでは?」と考える人もいるかもしれません。しかし、実はそうではないことが最新のデータで判明しています。経済産業省の膨大なデータを使い、「もともとの資金力や業績の差」というノイズを統計的に取り除いて分析しても、健康経営に投資した企業は、その後にしっかりと利益率を向上させているのです。

つまり、健康経営は「余裕の証」ではなく、「業績を上げるためのエンジン」そのものだと言えます。

「休む人」より「無理している人」が損失を生んでいる

これだけでも「健康経営はROIに直結する」と言えますが、本丸は実は株価ではありません。「目に見えない生産性損失」のほうが、はるかに大きな経済インパクトを持っています。というのも、厚生労働省「データヘルス・健康経営を推進するためのコラボヘルスガイドライン」によれば、健康関連コストのうちプレゼンティーズム(出勤時の生産性低下)が占める割合は77.9%にのぼり、医療費(15.7%)を大きく上回ります。

また、国内の製薬企業4社を対象とした学術研究によれば、従業員1人あたりの年間損失額は、病気欠勤(アブセンティーズム)によるものが約520ドルであるのに対し、プレゼンティーズムによるものは約3,055ドルと、実に約6倍の開きがあることが実証されています。なかでも生産性低下の最大要因は「首の痛み/肩こり」で年間432.92ドル、続いて「睡眠不足」が341.58ドル、「腰痛」が264.17ドルと試算されています。

つまり、休む人(アブセンティーズム)よりも、「無理をして出社しているものの頭が回っていない人」のほうが、企業にとっては圧倒的に大きな損失をもたらしているわけです。

経産省の健康経営ガイドブックでも、健康リスクが低レベルの従業員の損失コストは年間平均59万円であるのに対し、高レベルの従業員は平均172万円にのぼると試算されています。一人あたり3倍近い差。これだけ生産性に響くのなら、従業員の健康に投資しなきゃ損だ――経営者が現場に数値目標を課してまで取り組むのには、十分すぎる理由があるのです。

健康経営の不都合な真実――見過ごされる、従業員の「痛み」

ところが、ここで足を止めて考えなければならない問題があります。ROIを追い求めるあまり、企業は現場の従業員に「見えない痛み」を押し付けてはいないか、という問いです。健康経営の現場で起きがちな事例を3つご紹介しましょう。

CASE1|歩数イベントのために深夜の公園を歩く若手社員

部署対抗の歩数イベントは、健康経営の定番施策です。健康経営優良法人2024に認定された法人のうち、フィードバックシートにウォーキング施策関連の記述があるのは1,274法人にのぼります。チーム順位が社内掲示板に張り出され、上位チームには経営層とのランチが用意される。本来は微笑ましい光景です。

しかし、こんな声を耳にすることがあります。「終電で帰宅した後、深夜の公園を一時間歩いてから寝ています。チームの平均歩数を下げると申し訳ないので」と。健康のための施策が、社員の睡眠時間を削る要因になっているという、本末転倒な構図です。 

CASE2|プライバシーを度外視した「強制的」な特定保健指導

健診結果が悪かった社員に対し、「業務時間を割いて産業医面談に行きなさい」と上司から半ば命令される――こうしたケースは、決して珍しいものではありません。本人にとっては、自分の体重や血圧、生活習慣を社内で詮索されているような心地になります。

健康指導は本来、本人の納得と選択にもとづいて行われるべきものですが、「未受診者ゼロ達成」という数値目標が優先されるようになった途端に、面談を受けることが「問題社員のラベルを貼られた」と感じられてしまうのです。

CASE3|残業削減数値を守るための「隠れ残業」

「月の残業を○時間以内に」という目標を掲げた企業で、業務量そのものが減っていないとき、何が起きるか。社員はパソコンを自宅に持ち帰り、勤怠管理に乗らない時間帯に仕事を片付け始めます。労働時間の「数字」は改善しますが、労働の「実態」は何も変わっていません。むしろ、業務の可視化が後退し、メンタル不調の初期サインが見えなくなるという副作用すら生じます。

これらに共通するのは、健康経営が「経営の指標」を満たす手段になってしまったとき、そのしわ寄せが社員の側に押し付けられる、という構図です。

「やらされ感」が生む、健康経営の歪み

なぜこうした形骸化が起きるのでしょうか。原因はシンプルです。経営層が「アウトカム(結果としての数値)」だけを見て、「プロセス(社員の納得感)」にまで頭が回っていないからです。健康経営の評価指標は、認定取得に直結しています。

  • 健診受診率
  • ストレスチェック実施率
  • 運動施策の開催回数

こうした数値を“達成すること”が主眼になると、現場の従業員からすれば営業目標などと同じ仕事として施策を見るようになります。健康とは本来、極めて個人的な営み。それを経営の都合で一律に動かそうとすれば、どうしても「やらされ感」が生じ、歪みはじめます。「健康の押し売り」と呼ぶべき現象です。

加えて、健康経営の旗を振る経営層と、それを受ける現場との間に、しばしば目線のズレが存在します。経営層は「離職率低下」「医療費抑制」「企業価値向上」というマクロな課題を見ているわけですが、現場の社員は「明日の睡眠時間」「家族との夕食」「自分の体への信頼」というミクロな実感を見ているのです。

この2つの目線を橋渡しする設計をしないまま、上から下に号令を出すだけでは、健康経営はどうしても「報告のための儀式」へと姿を変えていきます。

「自分で選ぶ」「頑張らずにできる」を設計する

では、形骸化を回避している企業の健康経営施策はどのように設計されているのでしょうか。代表的な事例から浮かび上がるのは、「自律」と「仕組み」という2つのキーワードです。

SOMPOホールディングス:管理から「自律」へ

SOMPOホールディングスは、2024年度からの中期経営計画で、生命保険・介護・コーポレートウェルネスを横串で結ぶ「SOMPOウェルビーイング」事業を本格展開しています。健康・介護・老後資金という3つの「不」(健康不安・介護不安・お金の不安)を解消するという発想が、その背骨です。 

特徴的なのは、押し付けではなく行動変容にフォーカスしている点です。SOMPOホールディングスは2024年6月、RIZAPグループと資本業務提携し、総額約300億円を出資。コンビニジム「チョコザップ」を活用した運動データの蓄積と、健康診断データを組み合わせることで、社員一人ひとりが自分の健康状態の変化を実感できる仕組みづくりを進めています。

運動して健康状態が改善した場合にはアプリ経由でポイントを付与する仕組みも検討中とのこと。「指導される」のではなく、「自分で選んで行動に起こした結果が見える」設計になっているため、やらされ感が緩和されています。社内向けにも、WLQ-Jスコア*を用いて、プレゼンティーズムやアブセンティーズムの改善を定量的に追跡しています。可視化と自律支援を両立させる、堅実なアプローチと言えるでしょう。

※健康問題による生産性低下率測定プログラム

イトーキ:努力から「仕組み」へ

オフィス家具メーカーのイトーキは、健康経営優良法人(ホワイト500)に10年連続で認定された、オフィス家具業界唯一の企業です。同社のユニークさは、「行動デザイン」を健康経営の中核に据えている点にあります。

本社オフィスでは、ABW(Activity Based Working)の考え方をベースに、業務内容に応じて選べる10種類の空間を用意。固定席を持たず、仕事内容によって最も生産性が高まる場所を従業員自身が選択できる設計になっています。

3フロアの真ん中に階段を設置し、階段利用を促進することで、歩くこととコミュニケーションの機会を増やす工夫も施されています。同社が掲げる「Workcise(ワークサイズ)」は、仕事と健康によい行動を業務動線そのものに織り込む発想です。

数字面の効果も明確です。2018年に東京エリアの拠点を集約して新本社オフィス「ITOKI TOKYO XORK(現・ITOKI DESIGN HOUSE TOKYO)」へ移転した後、インフルエンザの発症率が約2割減少。2019年時点で40%台に留まっていた社員エンゲージメントスコアも、その後のオフィス投資と人事改革の継続によって、直近の2024年度調査では過去最高の82.5%を記録したといいます。

「頑張って健康になる」のではなく、「働いていたら健康になっていた」という、努力に依存しない設計がやらされ感を緩和した好例です。

両社に共通するのは、社員を「管理する対象」ではなく「自律する主体」として扱う姿勢。そして、努力を要求する制度ではなく、努力しなくても自然に健康行動が起きる環境を整えていることです。

まとめ:数字を追うのをやめたとき、はじめて数字がついてくる

健康経営の本質は、経営の目線と社員の人生が交差する、その“点”にあります。ROIを追うこと自体は、決して悪いことではありません。むしろ「投資」と銘打つ以上、収益性を検証するのは当然の作業です。

しかし、数字を真正面から取りに行く健康経営は、ほぼ確実に形骸化します。社員の納得感を欠いた施策はノルマと化し、ノルマは隠れ残業や深夜の歩数稼ぎといった歪みを生み、その歪みが結局はプレゼンティーズムやエンゲージメントの低下となって、ROIそのものを蝕んでいくからです。

逆説的ですが、「社員の人生を尊重する経営」のほうが、長期的なROI改善には近道です。一人ひとりが自分自身で健康と向き合える環境を作ること。仕組みによって自然に健康行動が生まれる場を整えること。そこに辿り着いたとき、結果としての株価や生産性は、後からついてきます。

数字を追うのをやめたとき、はじめて数字がついてくる――この逆説を信じられるかどうかが、これからの健康経営の分水嶺となるはずです。

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執筆者
鈴木 直人

あらゆる文脈で急速に「人である価値」が問い直される時代に、企業と人材の関係性の変化を探求中。現場の実践知と経営視点、ときにアートや歴史、科学の分野も渉猟しながら、新たな視点を掘り起こす。ライター歴12年。分野横断の取材を行う。