「人間が頂点の生命体の時代は終わる」。
この衝撃的なフレーズは、2026年7月14日、SoftBank World 2026の特別講演で、ソフトバンクグループの孫正義氏が語ったものです。報道の多くはこの発言と巨大な数字の予測を伝えましたが、本当の問いは別のところにあるように思います。労働の主役が人間からAIに移るとき、「人的資本」という言葉は、いったい何を意味するようになるのでしょうか。
SoftBank World 2026で孫正義氏が語った2040年:AIエージェント100兆個と「スーパーヒューマン」
ソフトバンク最大規模の法人向けイベントであるSoftBank Worldは今年で15回目を迎え、「AX for Japan」をテーマに7月14日に開催されました。特別講演で孫氏が描いたのは、約15年後にあたる2040年の世界です。ASI(人工超知能)が世界GDPの約20%、年間売上高にして7000兆円を占めるという予測は、講演の派手な見出しとして各所で報じられました。
しかし人的資本の観点から見たとき、より重要なのは労働の担い手に関する予測です。孫氏によれば、2040年には自律的にタスクをこなすAIエージェントが100兆個稼働し、知的なやりとりの中心は人間からAIエージェントに移ります。物理世界では人型ロボットが10億台働き、100億人相当の作業をこなすことで、肉体労働も人型ロボット中心に変化するといいます。
つまり孫氏の予測は、知的労働と肉体労働の両方について、その主役が人間ではなくなるという内容なわけです。では人間はどうするのか。孫氏が示した答えが「スーパーヒューマン化」でした。AIを拒否するのではなく、AIとともに進化する。人類は自動車で移動能力を、飛行機で飛行能力を、テレビやラジオで視聴覚を拡張してきたのであり、今度は初めて頭脳を拡張する番だ、という論理です。
講演では経営者に向けたメッセージも明確でした。「AIが仕事を奪うのではない。AIを使う企業が使わない企業から仕事を奪う」。この言い回し自体は目新しいものではないかもしれませんが、労働の主役交代という予測とセットで語られたことで、これまでとは異なる重みを持って響いたはずです。
人的資本とは何か。アダム・スミスから人材版伊藤レポートまでの系譜
ここで、「人的資本」という概念の来歴を短く確認しておきましょう。この言葉の起源は、18世紀のアダム・スミス『国富論』にさかのぼるとされます。特別な技能の習得に時間と労力をかけて教育された人を、スミスは高価な機械になぞらえました。この発想を20世紀半ばに「人的資本(Human Capital)」という概念として定式化したのが、シュルツやベッカー、ミンサーといった経済学者です。
なかでもゲイリー・ベッカーは、人を資本とみなし、教育や訓練をその資本への「投資」として理論化した功績で、1992年にノーベル経済学賞を受賞しています。資本とは、投資によって価値を増やすことのできるものです。この考え方を人間に適用したこと、それ自体が人的資本論の核心でした。
その後、概念は拡張されていきます。OECDは2001年の報告書で、人的資本を「個人的、社会的、経済的厚生の創出に寄与する知識、技能、能力及び属性で、個々人に備わったもの」と定義しました。日本では2020年9月に経済産業省が「人材版伊藤レポート」を公表し、2022年5月にはその実践編である「人材版伊藤レポート2.0」が続きます。人材をコストではなく資本と捉え、その価値を最大限に引き出すことで中長期的な企業価値向上につなげる。この「人的資本経営」の考え方は、2023年の有価証券報告書における人的資本情報の開示義務化によって、上場企業の実務に組み込まれました。
さてこのように並べてみると、暗黙のうちにひとつの前提があることがわかります。スミスの機械の比喩からベッカーの投資理論、そして伊藤レポートの企業価値論まで、人的資本はつねに「人が労働することによって価値を生む」ことを前提に組み立てられてきた、ということです。
崩れるのは概念ではなく「前提」。人的資本の3つの存立条件
人的資本という概念は、整理すれば3つの前提の上に立っています。第一に、能力は個人に内在するという前提。知識やスキルは機械や設備と違って持ち主から切り離せず、その人とともに移動します。第二に、能力は労働を通じて価値化されるという前提。人的資本が「資本」でありうるのは、それが働くことを通じて経済的な収益を生むからです。第三に、能力は投資によって増やせるという前提。教育や訓練にコストをかければ、その資本は増えると考えます。
孫氏の2040年像が大きく揺るがすのは、このうち第二の前提です。知的労働の中心がAIエージェントに、肉体労働の中心がヒューマノイドに移るなら、「労働を通じた価値化」という回路そのものが、人間の能力から切り離されていきます。労働しない人間の知識やスキルは、経済学的な意味での「資本」でありつづけられるのか。これは、人的資本を考えるうえで、避けて通れない問いとなります。
念のため確認しておくと、これは「AIが仕事を奪うかどうか」という雇用問題とは層の異なる問いです。雇用問題は、労働の総量と配分をめぐる議論であり、すでに膨大な論考があります。いまここで考えたいのは、その手前、あるいは奥にあるものとして捉えることができる「人の能力を資本とみなす」という概念そのものの存立条件です。
そしてこの問いは、孫氏の予測が当たるかどうかには依存しません。予測が半分しか実現しなかったとしても、労働と人間の能力との分離は、程度の差はあれ進行していくでしょう。だからこそ今ここで、概念の点検を行う意義があります。
人的資本のOECD定義に埋め込まれていた「拡張の可能性」
ここで先ほどのOECDの定義に戻ります。「個人的、社会的、経済的厚生の創出に寄与する知識、技能、能力及び属性」。注意深く読むと、この定義は人的資本の生み出す価値を経済的収益に限定していません。個人的な厚生、社会的な厚生。つまり健康や幸福、コミュニティへの寄与までを、人的資本が生み出す価値として視野に入れているのです。2001年の時点で、概念の側にはすでに「労働を通じた経済的価値化」の外側へ出る拡張の可能性が示されていたことになります。
一方で、日本では概念が狭く理解され、運用されてきたことが現在のイメージにつながっていると言えるでしょう。日本における人的資本経営の実装は、伊藤レポートの問題設定からして「持続的な企業価値の向上」を目的関数としています。開示制度も、投資家に対する説明責任の枠組みです。人への投資は、企業の競争力に還元できる範囲で正当化される。この運用は制度の性質上当然のものですが、その結果、人的資本という言葉が本来もっていた射程より狭く、「企業にとっての人材の資本価値」とほぼ同義に流通してきました。
実務の現状を考えてみても、理解の狭さは残っています。エージェント型AIの人事領域への導入は進んでいますが、その多くは人事業務の効率化にとどまり、人的資本を本質的に向上させる段階には至っていないという指摘があります。AIの進展が人的資本の「測定と管理」を精緻化する一方で、「人的資本とは何か」という定義の再考は、ほとんど手つかずのままだと言って良いでしょう。
企業の資本から、社会で共有する資本(人的資本の社会的共有)へ
労働が人間から離れていく世界で、人的資本という概念を延命させる道は、おそらく一つしかありません。それは、価値化の根拠を「企業における労働」から解放し、OECD定義がすでに示唆していた広い厚生の水準で捉え直すことです。人が学び、能力を蓄え、それを発揮することの価値を、雇用契約の内側だけで測るのをやめる。そのとき人的資本は、個々の企業が抱え込む経営資源ではなく、社会全体で育て、共有する資本として再定義されることになるはずです。
「人的資本の社会的共有」とは、人の価値の帰属先をひとつの企業ではなく、社会に紐付けようというものです。それは、人が生む価値を、ひとつの企業の利益に資するかという観点から、社会のなかで人がもたらす価値の相乗効果へと軸足を移すものです。
この視点に立つと、孫氏の「スーパーヒューマン」論も異なる面が見えてきます。AIによる能力拡張が本当に起きるなら、拡張された能力の帰属先が問われるはずです。それは個人の資産なのか、雇用主の資産なのか、それとも社会が共有するインフラなのか。孫氏の講演はこの問いを開いたまま終わっています。2040年を眼差しながら、今から考える問いは、まさにここからスタートすると言えます。
おわりに:「スーパーヒューマン」の前に問うべきこと
「スーパーヒューマンになれ」という命令形に、私たちはすぐに頷く必要はありません。その前に確かめるべきことがあります。労働が人間から離れてもなお、人が学ぶこと、能力を蓄えること、それを誰かのために使うことに、私たちはどんな名前を与えることができるのでしょうか。
「人的資本」という言葉を再定義し、AIと共にある世界で人の価値、人が働くことの価値を構想していくことが求められているでしょう。
参考文献
- ソフトバンク「『SoftBank World 2026』を開催」プレスリリース(2026年5月18日)
- ITmedia NEWS「AIで『人間が頂点の時代終わる』——孫正義氏が考える2040年 人類が生きる道は”スーパーヒューマン化”」(2026年7月14日)
- ITmedia AI+「孫正義氏が予想する『2040年』 “AI中心の社会”を生き抜く方法とは」(2026年7月15日)
- 野村総合研究所「人的資本」用語解説
- 日経ビジネス「『日本は長所を守り抜け』人的資本理論生んだベッカー氏の遺言」(2023年7月24日)
- 経済産業省「人的資本経営 〜人材の価値を最大限に引き出す〜」
- 日経ビジネス「AIがついに人間の仕事を奪い始めた」(2026年3月26日)
- IBM「未来型人的資本経営THINK第7回 エージェント型AIで進める『人的資本高度化への道』」










