人事担当者のための《東野圭吾の読みかた》|大作家の小説哲学に学ぶ、「何を言うか/言わないか」の技術

人事担当者のための《東野圭吾の読みかた》

2026年7月27日に流れた作家・東野圭吾氏の訃報。8月5日には最新刊『永遠の記憶』が書店に並びました。本稿では彼の功績の紹介や惜別の言葉を尽くすことから一段深く掘り下げ、作品に込められた哲学を改めて紐解き、彼の遺した作品を「人事担当者にとってのコミュニケーション教本」として読み直してみたいと思います。本好きの人はもちろん、「読書の落ちこぼれ」の人も、至高のエンタメ小説からプロの“伝わる技術”を学ばせてもらおうではありませんか。

小説家と人事担当者の共通点

小説と人事、この組み合わせを突飛に思う人もいるかもしれません。しかし実は小説家と人事担当者の間には、意外にも共通点が多いのです。

比較軸小説家人事担当者両者の共通点
① 人を見る行動やセリフから「なぜそれをやったのか(隠された本音)」を見抜く面談やアンケートの奥にある「社員の本当の気持ち」を汲み取る表に出てきた行動から、人間の「本当の理由」を読み解くこと
② 組み合わせる正反対のタイプ(理屈っぽい人と情に厚い人など)を出会わせて物語を動かす違う強みや考え方を持つ社員を一緒のチームにして、新しい成果を生む「誰と誰を一緒に仕事させるか」で、1+1を3以上にすること
③ 言葉をみがく難しすぎる言葉やムダな説明を削る、あえて詳細に描くことで、ストレスなく読める文章をつくる会社のルールや評価の基準を、誰が見ても迷わない分かりやすい言葉にする言葉を慎重に選別し、読み手がスムーズに動けるようにすること
④ 枠組みをつくる大まかなストーリーを決めておきつつ、途中でキャラが自由に動き出すのを活かす会社の計画やルールを決めつつ、現場で起きた予想外の変化にも柔軟に対応する全体のシナリオを用意した上で、生身の人間が自然と活躍できるようにすること

人事という仕事では、発信する言葉がそのまま「組織における人的資本の扱い方」に直結します。そのため上表の中でも言葉をみがく——すなわち「何を言うか/言わないか」の技術は特に重要です。そして東野圭吾氏はこの技術に長けていた作家でした。

東野作品に込められた哲学

まず自分が読者だとして、途中で面白くないなとか、飽きちゃうようなそういうものは絶対に書きたくないんですよ。僕は昔は本嫌いな少年だったので、あのときの本嫌いな自分でも面白く読めるような小説にしたいというのが、いつも思ってることです。

※第134回芥川賞・直木賞受賞者会見より

東野圭吾氏の小説哲学の核にあるのは、「徹底的な読者ファースト」と「職人(クラフトマン)としての美学」。彼自身の言葉、何よりその作品からは次のような哲学が見てとれます。

エゴの徹底的な消去=何を言わないか

「教訓を与えたい」という書き手の自我を捨て、読者の集中力を削ぐ不要な説明や心理描写などのノイズを極限まで削ぎ落とすこと。 

「動機」へのこだわり=何を言うか

奇抜なトリックよりも、「なぜその人物はそこまで追い詰められたのか」という人間の切実な感情や背景を精緻に描くこと。

「読みやすさ」の技術=どう言うか

情報を提示する順番を緻密に計算することで、誰にとっても「読みやすい」文章を書くこと。

何を削り、何を選び、どう並べるのか。東野圭吾という作家が40年間続けてきたのは、この技術を磨くことでした。

人事担当者のための《東野圭吾の読みかた》

誰が読んでも面白い。これが東野作品のすごいところ。そのため、何も考えずに手に取り、物語に没頭するのが彼の小説の正しい読み方です。

しかし1周目をそうやって読んだら、次は作者が削っているもの、選び取ったもの、並べた順序に着目して読んでみてはどうでしょうか。そうすることで楽しみながら、プロフェッショナルの研ぎ澄まされた言葉の技術を学ぶことができるかもしれません。

削る技術|『白夜行』

『白夜行』は、1973年に起きた質屋殺害事件を皮切りに、被害者の息子・桐原亮司と容疑者の娘・唐沢雪穂の約20年を描いたミステリーです。一見無関係に見える二人の周囲で不審な事件が頻発し、暗躍する影が浮かび上がります。

本作で作者があえて削った最大の要素は、「2人の内面描写(心理)」と「直接の接触・会話シーン」。この判断によって生まれる余白は、読者を捜査員化します。人物の心情が描かれないため、自ら第三者の目撃証言や状況証拠を通じて2人の動機を推測する能動的な読み方をするようになるのです。

人事担当者のためのヒント

人事が社内に説明資料や告知文を出すと、得てして長くなりがちです。しかし本音を言えば、これは「長々と説明するべき内容」があるのではなく、「批判されたくない」「これだけ検討したと示したい」などの書き手側のリスク回避のためというケースも少なくありません。結果として読み手にはまったく関係のない情報が多くの字数を占め、伝えたい内容も伝わらないなんて事態に……。

着目すべきはその情報を届ける人の行動です。「この一文を書く/削ることで◯◯さんの行動はどう変わるか?」と具体的な相手をイメージしつつ、自問自答しながら磨き込んでいけば、『白夜行』のように読者を巻き込む言葉が残るはずです。

ただし、小説なら解釈の幅は文学的な豊かさの証明ですが、組織では不信につながる可能性もあります。だからこそ、行動指針をどこまで列挙するか、面談で何を聞かないでおくかといった意図的な空白に、どんな意味を託すべきか、託してはいけないかを技術として身につけていく必要があるのです。

『白夜行』はこう読んでみて!:「このシーンで主人公たちの心理描写や会話シーンがあったら、どうなったかな」と想像しながら読み進める。

選ぶ技術|『容疑者Xの献身』

『容疑者Xの献身』は、天才的な数学の才能を持ちながら高校教師として不遇な日々を送る石神が、アパートの隣人・花岡靖子が起こしてしまった殺人を隠蔽するため、完璧なアリバイを構築し、旧友の物理学者・湯川学と対峙するミステリーです。ガリレオシリーズ初の長編であり、2005年下半期の第134回直木賞(発表は2006年1月)と本格ミステリ大賞を受賞しました。

刊行時のインタビューで、東野氏はなぜ初の長編にしたのかを問われ、短編では仕掛けを書くだけで精一杯になってしまうこと、容疑者側の人物像に自分でも魅力を感じたので、じっくり長編で書きたいと思ったことを語っています。「何を言うか」にトリック以上のものを選んだからこそ、本作ではトリックが石神の「なぜそこまでしたのか」を証明する装置として使われているのです。

人事担当者のためのヒント

人事が研修資料や制度説明をつくるとき、「内容を正確に伝えたうえで、納得してもらって、読む人の不安も解消できて、新しい行動も促進して……」と、つい多くの目的を一つの文書に詰め込みたくなります。しかし、すべてを同じ強さで伝えようとすれば、結局、読み手の頭には何も残りません。

着目すべきは、説明できる情報の量ではなく、「この資料を読んだ人に、最後に何を一つ持ち帰ってほしいのか」です。新制度の仕組みを理解してほしいのか、申請期限までに手続きをしてほしいのか、それとも制度変更の背景に納得してほしいのか。最も重要な目的を一つ選ぶことで、盛り込む数字や事例、説明の量や順序も決まってきます。

そのうえで、「この説明は、選んだメッセージを理解するために必要か」「この数字は、そのメッセージを証明しているか」と一つずつ問い直してみてください。『容疑者Xの献身』においてトリックが石神の人物像を浮かび上がらせたように、資料に含まれる情報も、メッセージを伝えるための装置として機能するはずです。

ただし、わかりやすさと引き換えに正確性や公平性を失っては本末転倒です。制度の条件や例外、社員の権利に関わる情報などはきっちりと伝える必要があります。大切なのは、情報を一つだけに絞ることではなく、何を中心に置き、何を補足として伝えるかという優先順位を設計することです。

『容疑者Xの献身』はこう読んでみて!:「この描写は、石神の人物像を伝えるためにどんな役割を果たしているんだろうか」と考えながら読み進める。

並べる技術|『新参者』

『新参者』は、日本橋署に着任した刑事・加賀恭一郎が、一人暮らしの女性の絞殺事件を追う物語です。2009年に刊行された加賀恭一郎シリーズ第8作で、9つの短編からなる連作形式をとっています。加賀は煎餅屋、料亭、瀬戸物屋など、事件の周辺にある店を一軒ずつ訪ねていくことで物語が進んでいきます。

本作の読者は当初、人形町に暮らす人々の人情話を読んでいるように感じます。しかし読み終えると、それぞれの章で示された出来事や証言が、事件の解明に必要な断片だったと分かる、という設計になっています。この仕掛けを支えているのが、情報を並べる順番です。東野氏は本作において、何を書くかだけでなく、どの情報を、どの段階で読者に渡すかを緻密に管理しているのです。

人事担当者のためのヒント

人事が社員に対して何かを説明するときも、情報を渡す順番によって受け取られ方は変わります。最初に全体像を示すのか、社員に身近な変化から説明するのか。変更の背景から入るのか、必要な手続きから入るのか。内容が同じでも、どこから伝え始めるかによって理解度や納得度は変わります。

着目すべきは、相手がその時点で何を知り、次に何を知りたくなるかです。制度変更の理由を知らない社員に申請方法だけを説明しても、「なぜ変えるのか」という疑問は残ります。一方、すぐに手続きが必要な社員へ背景から長く説明すれば、行動に起こす前に集中力が切れてしまいます。

「この情報を受け取った相手は、次に何を知りたくなるか」「説明のあとに、どんな行動をしてほしいか」と問いながら、順番を組み立ててみてください。読み手が理解を一段ずつ進められるように情報を並べることが重要です。

ただし、小説家は物語上の仕掛けとして読者をミスリードできますが、人事が社員を誤解させたり、条件を後出ししたりすれば、「削る技術」と同様に不信につながります。必要な情報を隠さず、どの順序なら正確な理解と適切な行動につながるかを考える。それが、人事における「並べる技術」です。

『新参者』はこう読んでみて!:「作者はなぜ、今この情報をこちらに渡してきたのだろう?」と考えながら読み進める。

まとめ:2倍速で動画を観る時代に、小説を読む理由

動画はもちろん、映画やドラマも2倍速。わからないことはAIに質問すれば、聞いていないことまで詳しく回答が返ってくる。とにかく時間がない、無駄にするのはもったいない。

こんな時代に、小説は明確にタイパの悪いメディアでしょう。しかしそれは、作家たちが試行錯誤の中で構築した「言葉の芸術」です。ゆっくりと眺めれば、仕事や人生に役立つたくさんのヒントが見つかるはず。

東野圭吾氏は、その中でもとりわけ職人的に、「読書の落ちこぼれ」でも楽しめる物語を描くために四苦八苦した作家の一人です。そこには純粋な物語の面白さとともに、“伝わる技術”がぎっしり詰まっています。すでにファンの人はもちろん、そうでない人も、今一度東野作品を読み直してみてはどうでしょうか。


東野圭吾氏 プロフィール 1958年2月4日、大阪府大阪市生野区生まれ。大阪府立大学工学部電気工学科卒業後、日本電装(現・デンソー)で技術者として勤務する傍ら執筆を続け、1985年『放課後』で第31回江戸川乱歩賞を受賞し、作家デビュー。 1999年『秘密』で第52回日本推理作家協会賞、2006年『容疑者Xの献身』で第134回直木賞と第6回本格ミステリ大賞を受賞。ガリレオ、加賀恭一郎、マスカレードの各シリーズをはじめ、緻密な謎解きと人間ドラマを融合させた作品を数多く発表し、日本のミステリー界を牽引した。 2009年から2013年まで日本推理作家協会理事長、2014年から2019年まで直木賞選考委員を務めた。 2023年には著作100冊、国内累計発行部数1億部を突破し、第71回菊池寛賞と紫綬褒章を受章。2024年、第28回日本ミステリー文学大賞受賞。 2026年7月23日、大腸がんのため逝去。享年68。

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執筆者
鈴木 直人

あらゆる文脈で急速に「人である価値」が問い直される時代に、企業と人材の関係性の変化を探求中。現場の実践知と経営視点、ときにアートや歴史、科学の分野も渉猟しながら、新たな視点を掘り起こす。ライター歴12年。分野横断の取材を行う。