時給1500円。それは2026年現在、地域や業種によっては魅力的な数字です。しかし高市内閣が掲げる「2020年代に全国平均1,500円」が実現すれば、時給の高さだけで他社との違いを示すことは難しくなります。そのとき、自社に必要な人材から選ばれる企業になるためには、「賃金」「福利厚生」だけではない、《自社で働く価値》を今から設計していく必要があります。
政府は、最低賃金について「2020年代に全国平均1,500円」という目標を掲げてきました。2026年4月に城内実・賃上げ環境整備担当大臣が、高市内閣下においてもこの目標は継続されていると発言しています。
実際、賃金水準の底上げは進んでいます。2025年度の地域別最低賃金は、全国加重平均で1,121円となり、前年度から66円上昇しました。これは、1978年度に目安制度が始まって以降で最大の引上げ額です。
もちろん、政府は目標を事業者に「丸投げ」するのではなく、価格転嫁や生産性向上、省力化支援などによって、継続的に賃上げできる環境を整える立場も示しています。企業が厳しい状況にあるのは事実ですが、この流れに逆らうのは難しそうです。
しかし、ここで問題がもう一つ。最低賃金が引き上げられれば、自社だけでなく、同じ地域・同じ業種で求人を出す競合企業も賃金を引き上げます。その結果、現在は自社の魅力として機能する「時給1500円」も、近い将来、差別化要因ではなくなるのです。
賃金は、働く場所として検討されるための重要な条件です。ところが、周囲の企業も同程度の賃金を提示するようになれば、それだけで「この会社を選びたい」「ここで働き続けたい」と思ってもらうことは当然、難しくなります。
無理をして賃金を上げたのに、人が来ない。定着もしない。では、企業は何をもって選ばれるのか。本稿では、賃上げだけに依存した採用がなぜ危うくなるのかを整理したうえで、働く人に選ばれ、働き続けてもらうための「従業員への提供価値」を、企業事例から考えていきます。
”賃上げ依存採用”が危うくなる理由

前述した通り、最低賃金の引き上げが進めば、賃上げをしたというだけでは働き手を惹きつけることはできなくなります。しかし問題は差別化できなくなることだけではありません。賃金だけを頼りに人材を確保しようとすれば、人件費を引き上げ続けても、必要な人手を安定的に確保できない状態に陥りかねないのです。
価格競争は「ジリ貧」を招くだけ

A社が採算を度外視した値下げを始めると、それを追いかけるようにB社、C社も値下げを始め、結局業界全体の利益が減り、ジリ貧になっていく……。こうした値下げ競争によるジリ貧状態は、どの業界にもよくある現象です。人材不足が深刻化する中での賃上げ競争も同じです。
自社が時給を上げれば、競合も人材を失わないために賃金を見直す。競合がさらに高い条件を提示すれば、自社も再び追随を迫られる。こうして賃金だけで選ばれようとする企業は、限られた働き手をめぐる競争のなかで、人件費だけを継続的に膨らませることになります。
もちろん、競争力のある賃金を提示することは必要です。しかし、「他社より少し高い時給を出すこと」だけが自社の魅力であれば、さらに高い時給を示す企業が現れた時点で、その魅力は失われます。
企業が本当に避けなければならないのは、限られた原資を投じて賃金を引き上げたにもかかわらず、自社を選んでもらう理由がそれ以外に存在せず、応募も増えず、定着率も改善しないことです。賃上げを採用や定着への投資に変えるためには、「自社で働き続ける意味」ととことん向き合う必要があるのです。
時給が上がっても、働ける時間が増えない人もいる

ここまでが、新たに人を採用する際の問題だとすれば、もう一つ見落としてはならないのが、すでに働いている人の「働ける時間」の問題です。
時給を引き上げたからといって、既存の従業員がその分だけ長く働けるようになるとは限りません。生活上の制約がある場合もあれば、収入額や社会保険加入との関係を踏まえて、働く時間の調整が必要な場合もあるからです。
つまり、企業が時給を引き上げたとしても、それだけで既存従業員の勤務時間が増えたり、現場の人手不足が解消されたりするとは限らないのです。
どの程度の時間働けるのか。
生活上の事情を抱えながらも、無理なく仕事を続けられるのか。
社会保険や処遇の変化を含めて、本人が納得して働き方を選べるのか。
賃金を引き上げる局面だからこそ、企業は一人ひとりの働き方と、現場の回し方をあわせて考え直す必要があります。
「働く人にどんな価値を提供するのか」を考えたことはありますか?

では、賃上げだけでは選ばれ続けることが難しくなる時代に、企業は何を提示すべきなのでしょうか。多くの企業は、顧客に対しては「自社ならではの価値」を考え抜いています。競合ではなく、なぜ自社を選ぶ意味があるのか。価格だけで比べられないよう、品質や利便性、体験、信頼性を磨き続けています。
ところが、採用になると、提示されるのは賃金、勤務地、勤務時間、休日、福利厚生といった条件の一覧です。確かにどれも欠かせません。なかでも賃金は、働く人の生活を支える大前提です。しかし、これからは顧客に対してするように、従業員に対しても「自社ならではの提供価値」を設計し、積極的に伝えていく必要があります。
「アットホームな職場です」「やりがいがあります」といった採用コピーではありません。「想い」や「こだわり」を語るだけでもありません。もっと具体的な、働く人が実際に受け取れる価値ーー例えば、
- 子育てや介護と両立しながら働き続けられる、制度や仕組みを整えている。
- 働くなかで技能を身につけ、その成長が待遇に結びつく評価システムを採用している。
- 現場の負担を減らすために、会社が定期的に業務を見直している。
などです。
最低賃金1,500円が視野に入る時代、企業が問うべきは「いくら払えば人が来るのか」だけではありません。
- 自社は、働く人にどのような価値を提供できるのか。
- そのために、会社の側は何を変えられるのか。
なのです。
【事例】「自社ならではの提供価値」を仕組み化した企業たち
では、働く人に対する「自社ならではの提供価値」は、どのようにつくればよいのでしょうか。以下で紹介する2社は、業種も事業規模も異なります。また、各社の制度をそのまま導入すれば、どの企業でも同じ成果を得られるわけではありません。
しかし重要なのは、2社がいずれも「従業員に自社で働き続けてもらうためには、会社の側が何を変えるべきか」と問い続け、その答えを制度や業務の仕組みにまで落とし込んだことです。
パプアニューギニア海産|休むことに重圧を感じさせない

- 従業員への提供価値:子育てなどの生活事情に合わせ、休むことへの重圧を抱えずに働ける
- 実現した仕組み:好きな日に出勤・欠勤でき、連絡も不要とする「フリースケジュール」制度
- 注目すべき点:従業員に柔軟性を求めるのではなく、会社の運営側が柔軟性を引き受けた
大阪府摂津市でエビ加工を手掛けるパプアニューギニア海産では、パート従業員は、好きな日の好きな時間に出勤し、退勤できます。休むときに電話やメールで連絡する必要はなく、むしろ出勤・欠勤の連絡は禁止されています。
現在は、2週間に20時間以上勤務するという最低限のルールを設けつつ、日々の出勤日は本人の判断に委ねられています。代表の武藤北斗氏が「フリースケジュール」と呼ぶ制度です。

この制度は、最初からユニークな働き方を打ち出そうとして生まれたものではありません。同社は、東日本大震災によって宮城県石巻市の工場を失い、大阪府へ拠点を移しました。その後、宮城県からともに移ってきた社員が退職し、武藤氏とパート従業員だけが残る状況になったといいます。
そこで武藤氏は、従来の働かせ方を維持するのではなく、「今ここにいる人たちが、働き続けられる職場にするにはどうすればよいのか」を考えるようになりました。
従業員の声を聞くなかで見えてきたのは、子育て中の人にとって重要なのは、「働ける日を増やせること」だけではなく、「子どもの体調不良などで休まざるを得ない日に、重圧なく休めること」だという点でした。
多くの職場では、急に休む場合、本人が上司へ連絡し、理由を説明し、周囲への申し訳なさを抱えながら欠勤します。会社側から見れば当然の手続きであっても、働く側にとっては、休まざるを得ない状況でさらに心理的な負担を背負うことになります。そこで同社は、発想を逆転させました。
休むこと自体を止められないのであれば、休む際の連絡によって生じる重圧をなくしてしまえばよい。こうして2013年に始まったのが、連絡なしで出勤・欠勤できるフリースケジュール制度でした。

重要なのは、従業員に柔軟性を求めるのではなく、会社の運営側が柔軟性を引き受けた点です。出勤日を会社が固定せず、欠勤連絡も求めないのであれば、工場側は、毎日同じ人数が揃うことを前提に運営できません。会社は、従業員の生活に柔軟性を与える代わりに、出勤人数が変動する働き方を受け入れる必要があるのです。
武藤氏によると、フリースケジュール導入後の11年間で、人員不足による欠品は発生していません。誰も出勤しなかった日は、制度導入初期に一度あったのみで、人数が増え、勤務時間も自由になってからの9年間はゼロだったといいます。
これは同社代表による報告であり、制度の効果を他社へ一般化することはできません。ただ、従業員にとっての「休みやすさ」を本気で実現するには、会社側も従来の管理の前提を手放さなければならないことを示す事例と言えるでしょう。
元湯 陣屋|賃上げと休める働き方を両立する

- 従業員への提供価値:賃金をアップしながら、休日を確保し、自分の時間や新たな挑戦をする機会も持てる
- 実現した仕組み:業務のデジタル化、マルチタスク化、休館日を設けた週休3日制
- 注目すべき点:働き方の改善を福利厚生で終わらせず、収益力向上と一体で進めた
神奈川県秦野市の鶴巻温泉にある老舗旅館「元湯 陣屋」は、賃上げと働き方の改善を同時に進めた事例です。
旅館業は、宿泊客を迎える以上、土日や繁忙期に営業する必要があります。接客、清掃、調理、フロントなど業務も多岐にわたり、長時間勤務が多く、休日も取りにくい業種です。従業員の負担を軽くしようにも、単に休みを増やせば売上機会が減り、賃上げの原資も生み出せなくなる可能性があります。
そこで陣屋が行ったのは、従業員の我慢に頼って営業を続けることでも、収益性を度外視して休みだけを増やすことでもありませんでした。まず、事業の形そのものから変えたのです。

同社が自社開発し、2008年から運用しているクラウド型ホテル管理システム「陣屋コネクト」。これは、
- 予約
- 顧客情報
- スケジュール
- 食材原価
- 会計処理
- 社内連絡
などを一括管理できるというシステムです。情報を一元化することで、現場で必要な情報を共有しやすくし、業務の効率化を進めました。さらに、従業員が複数の業務を担うマルチタスク化を進め、従来の職種ごとの分業のあり方も見直していきました。
こうした業務再設計を土台として、同社は2014年に週2日の休館日を設定し、2016年からは週3日に拡大。現在、原則として火曜・水曜・木曜を休館日とし、正社員も週休3日で働く仕組みを設けています。営業日を減らすという判断は、年中営業が当然と考えられがちな旅館業では大きな転換です。

しかも陣屋は休みを増やしただけではなく、賃上げにも取り組んでいます。
厚生労働省の事例紹介によれば、同社は2022年10月、若手社員の基本給を33%、全パート社員の時給を平均3.3%、最大14.5%引き上げました。その背景には、IT活用による生産性向上や、予約経路の見直しなど、収益力を高めるための取り組みがあります。
つまり、陣屋は「給与は高くできないが、休みなら増やせる」と考えたわけではありません。賃金を上げる。そのうえで、休みを確保し、従業員が無理なく働き続けられる状態をつくる。その両方を成立させるために、情報管理、業務分担、営業日、収益構造まで見直したのです。
同社の離職率は、経営承継当初の33%から3〜4%にまで低下したとされています。また、週休3日制や残業時間の減少を背景に副業も許可し、従業員が動画編集やSNS運用などを学び、それを本業に活かす例も生まれていると紹介されています。

陣屋が働く人に提示した価値は、単に「休みが多い旅館」ということではありません。賃金を受け取りながら、自分の時間を持てること。旅館の仕事を続けながら、新しい技能や挑戦の機会を持てること。そして、従業員に無理を強いるのではなく、会社が事業のあり方を変えることで、その働き方を成立させようとしていることです。
人件費が上がる時代に、賃上げと働き方改善を両立させるには、現場に負担を押しつけるだけでは続きません。陣屋の事例は、従業員への提供価値を高めることと、事業の収益力を高めることを、同じ経営課題として扱う必要性を示しています。
まとめ:賃上げを「自社で働く意味」をつくり直す契機に
最低賃金1,500円が視野に入る時代、賃金を引き上げることは、企業にとって避けがたい経営課題になります。しかし、競合もまた同じように賃金を引き上げていくなかでは、「いくら払うか」だけで選ばれ続けることは難しくなるでしょう。だからこそ、企業は今、自社に問い直す必要があります。
自社で働く人は、賃金以外にどのような価値を受け取れるのか。
その価値は、言葉だけではなく、制度や業務の仕組みとして実現されているか。
働き続けてもらうために、会社の側が変えられることは何か。
限られた原資を投じて賃上げを行うのであれば、それを単なるコスト増で終わらせてはなりません。働く人が「ここで働きたい」「ここで働き続けたい」と思える理由まで、同時につくり直す必要があります。
賃上げを、ただのコスト増で終わらせるのか。それとも、自社で働く意味をつくり直す契機にするのか。最低賃金1,500円時代に向けて、企業に問われているのは、その経営判断です。










