AI時代の健康経営は、人を「守る」だけで終わってよいのか?

「不調を防ぐ」「リスクを減らす」

多くの企業の健康経営は、「守り」の段階で止まっていないでしょうか。AI活用が進む今、健康経営に求められる役割は変わりつつあります。守りの先にある「攻め」の設計を考えます。

健康経営は、いまや多くの企業にとって特別な取り組みではなくなりました。

  • 定期健診の受診率を高める。
  • ストレスチェックを実施する。
  • 長時間労働を是正する。
  • メンタル不調の兆候を早めに見つける。

こうした取り組みは、従業員が安心して働くうえで欠かせないものです。

しかしここで、ある一つの問いを、皆さんと一緒に立ち止まって考えてみたいのです。すなわち、

「人を守る仕組みが整えた組織はその後、従業員一人ひとりが<何に挑むのか>まで設計できているのか?」

というのも、そもそも経済産業省は健康経営を「福利厚生」ではなく「投資」として提唱しています。

つまり、健康経営は、従業員を不調にさせないためだけの制度ではなく、本来は施策によって充実した心と体を土台に、一人ひとりが本来のパフォーマンスを発揮するための経営戦略なのです。

しかし実務の現場では、「不調を防ぐ」「リスクを減らす」「法令を守る」といった“守り”の施策を実践し、一定の効果が見えたところで止まりがちです。これはいったいなぜなのでしょうか。

経済産業省が掲げる本来の「攻めの健康経営」と、実務としての「守りの健康経営」のあいだにある溝の原因は何なのか。この溝を乗り越え、守りと攻めの橋渡しをするにはどうすればいいのか。

本稿ではこれらについて、実際の企業の事例などをあげながら考えてみたいと思います。

健康経営のゴールが「守り」になってしまう理由

経済産業省の資料によると、令和6年度の健康経営度調査の回答数は大規模法人部門で3,869件に達し、2014年度から大きく増加しています。

中小規模法人部門でも健康経営優良法人認定制度の申請法人は2万件を超えており、健康経営は企業の社会的信用や採用競争力にも関わる重要なテーマになっています。

健康経営の普及自体は、もちろん望ましい変化です。ただし、実務担当者の立場で考えると、健康経営はどうしても「測定できるもの/報告しやすいもの」から整備したくなるもの。

  • 健診受診率
  • ストレスチェックの実施率
  • 残業時間
  • 休職者数
  • 喫煙率
  • 有所見率

これらは数値化しやすく、改善状況も説明しやすい指標です。

一方で、

  • 従業員の挑戦意欲
  • 創造性
  • 学習への粘り
  • 異質な意見を受け止める力
  • 新しい事業に踏み出す熱量

といった「攻め」の成果は、簡単には測れません。

プレゼンティーイズム(*1)やワークエンゲージメント(*2)のような指標は広がりつつありますが、それがどのように新規事業やイノベーションへつながったのかを因果関係として示すには、長期的なデータと丁寧な分析が必要です。

(*1)健康上の問題を抱えながら無理をして出勤し、パフォーマンスが低下した状態で業務を行う「疾病就業」

(*2)仕事に対して「活力(いきいきしている)」「熱意(誇りを感じる)」「没頭(夢中になっている)」の3要素が満たされた、ポジティブで充実した心理状態

だから健康経営は、本来「人が価値を生み出せる状態をつくる」ものでありながら、現場では「人を保護して壊れないようにする」施策に集中しがちなのです。

これは担当者の意識が低いからではありません。制度の評価基準とデータ計測の構造上、守りの施策の方が運用しやすいからです。

AIの発達による、徹底的「守り」体制

この流れをさらに加速させているのが、AIの活用です。

たとえばKDDIは、HRテクノロジーを活用した「AI社員健康管理」を導入しています。

同社の発表によると、

  • 年休取得日数
  • ストレスチェック
  • 急激な残業増

といったデータをAIで分析し、心身不調の予兆がある社員を検知して早期フォローにつなげる仕組みです。

2019年4月から実施したトライアルでは、不調の予兆がある者の発見時間を最大で6分の1に短縮し、AIが心身の不調の予兆ありと検知した100名のうち42%が実際にサポートが必要と判断されています。

これは、産業保健の観点から見れば非常に大きな前進です。従来は、本人が限界に近づいてから相談する、あるいは休職して初めて深刻さが明らかになるケースも少なくありませんでした。

AIによって、本人が言語化する前の変化を拾えるようになれば、産業医や人事、上司がより早く支援に入れる可能性があります。

AI×健康経営に潜む欠点とリスク

AIは「兆候の検知」が得意です。残業が急に増えた。睡眠に関する回答が悪化した。ストレスチェックの傾向が変わった。こうした変化から、いち早くリスクを見つけることができます。

一方でAIは、一人ひとりの従業員について「この人は何に挑むべきか」を決めることはできません。

高い負荷がかかっているとして、それが本人にとって意味のある挑戦なのか、単なる消耗なのか。いま負荷を下げるべきなのか、支援を厚くしながら踏みとどまる局面なのか。

そこには、本人の意思、職場の文脈、仕事の意味、チームの関係性を読む人間の判断が必要だからです。

さらに、AIによる健康管理には慎重さも求められます。

健康データが評価や配置に安易に結びつけば、従業員は「支援されている」のではなく「監視されている」と感じるでしょう。

AIは管理の道具ではなく、あくまで支援のタイミングを逃さないための補助線として使う仕組みを整えることも大切です。

先進企業は「守り」と「攻め」をつなげ始めている

これに対して、健康経営を単なる守りの施策で終わらせず、挑戦の土台として捉えようとする企業もあります。

その一つがサントリーグループ。同社は2016年に健康経営宣言を発表し、社員一人ひとりが安心して挑戦できる環境を整えるために健康経営を推進していると説明しています。

同社の人的資本レポートでは、社員が最大限に力を発揮し、新たな価値を生み出し続けるためには、心身ともに健やかであることが不可欠だとされています。

ここで注目すべきなのは、健康が「病気を防ぐもの」としてだけではなく、「挑戦・革新の源」として語られている点です。

同社のニュースリリースでも、「人」こそが成長を支え、未来を切り拓く原動力であり、社員がキャリアオーナーシップを持ちながら挑戦・成長し続けられるよう人財育成を推進しているとされています。

つまり経済産業省が掲げている通り、健康経営が人的資本経営と接続されているのです。

健康施策、人材育成、キャリア支援、挑戦機会が別々の制度として存在するのではなく、「健康であるからこそ、挑戦できる」「挑戦するからこそ、健康を維持するためのルールが必要になる」という循環する施策として扱われているのです。

この考え方は、仕事のストレス研究とも重なります。

Job Demands-Resourcesモデル(仕事の要求度-資源モデル)では、仕事上の要求度が高すぎれば疲弊につながる一方、裁量、支援、成長機会などの資源があれば、エンゲージメントや能力発揮につながると考えられています。

重要なのは、負荷そのものをゼロにすることではありません。負荷に向き合えるだけのリソースを、組織が用意できているかどうかです。

「なくすべき負荷/のこすべき負荷」を分ける

心理的安全性の研究で知られるエイミー・エドモンドソンは、心理的安全性を、チーム内で対人リスクを取っても安全だと共有されている信念として説明しました。

すなわち「ぬるい職場」ではなく、率直な意見が言えて、学ぶことができ、失敗からの挽回・改善が可能な環境でこそ、私たちはより高いパフォーマンスを発揮できるのです。

ここで、これからの健康経営に必要な発想が見えてきます。

企業がなくすべきなのは、すべての負荷ではありません。なくすべきなのは、人の心や体を壊す負荷です。

  • 長時間労働
  • ハラスメント
  • 目的のない叱責
  • 見通しのつかない業務量
  • 誰にも相談できない孤立
  • 失敗したら終わりという恐怖

これらは、健康経営が明確に取り除くべきものです。

一方で、すべての緊張や摩擦まで消してしまえば、人は成長の機会を失います。

  • 少し背伸びが必要な役割(ストレッチゴール)
  • 難しい問いに向き合う時間
  • 厳しくとも人格を否定しないフィードバック
  • 異質な意見との衝突
  • 責任ある意思決定
  • 失敗しても再挑戦できるプロジェクト

これらは、消すべき負荷ではなく、設計すべき負荷です。

目指すべきは、誰も疲れない職場ではありません。必要な挑戦に向き合い、疲れたら回復でき、失敗から学習し、もう一度挑戦できる職場なのです。

AIは単なるセンサーから伴走するコーチへ

AIも、不調の予兆を検知する単なるセンサーから、従業員に伴走するコーチへと進化しつつあります。

すでに、AIとコーチングを組み合わせ、従業員のコンディションや行動変容を支援するサービスも登場しています。

たとえばBOOSTは、AIツールと1on1コーチングを組み合わせた社員支援サービス。

発表によれば、電通スタートアップグロースパートナーズでの初期利用では、コンディションスコアの平均47%改善や満足度92%といった結果が公表されています。

もはやAIは、従業員を見張るためだけのものではありません。反復業務を減らし、認知負荷を下げ、状態の変化を早めに知らせ、必要に応じて内省や行動変容を支援する。

そうして使いこなせれば、AIは健康経営の「監視装置」ではなく、挑戦と回復を支える伴走者になり得るのです。

まとめ:その健康経営に「守りの先」はあるか?

これからの健康経営に必要なのは、「組織の中に不調な従業員がいない状態」をゴールにしないことです。

もちろん、不調を防ぐことは重要です。しかし守りの目標を達成したあとは、攻守を循環させる段階へと進めなくてはなりません。

  • 守りの施策で、本来のパフォーマンスで挑戦できる状態をつくる。
  • 挑戦・失敗したあとに、回復できる場所・時間をつくる。
  • 回復した人が、また次の挑戦へ向かえる仕組みをつくる。

この循環を設計することが大切です。

健康経営は今、福利厚生やリスク管理の枠を超えつつあります。これから問われるのは、健康経営が組織のレジリエンス(回復力)と接続されているか、です。

自社の健康施策は、「守りの先」を設計しているか。これを機に、今一度見直してみてはいかがでしょうか。

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執筆者
HUMAN CAPITAL + 編集部

「HUMAN CAPITAL +」の編集部です。 社会変化を見据えた経営・人材戦略へのヒントから、明日から実践できる人事向けノウハウまで、<これからの人的資本>の活用により、企業を成長に導く情報をお届けします。