近年、「人的資本経営」が注目を集めています。考え方自体は広まりつつありますが、いざ自社に導入しようとした際、「具体的に何をどのように進めれば良いのか」で悩む企業や人事担当者も多いのが現実ではないでしょうか。 そこで今回は、株式会社ゆめみ 取締役CHRO 太田昂志氏にお話を伺いました。人的資本経営を企業や人事担当者がどのように実践し、事業成長にどう結びつけていくべきか、そのヒントを探ります。
太田昂志氏プロフィール
大阪大学卒業後、システムインテグレーターに新卒入社し、法人営業に従事。その後、組織人事系ファームに転じ、コンサルタントとして様々な業界・企業に対する人材育成・組織開発の課題解決に従事。EdTech新規事業部門に異動後、デジタルプロダクトの事業開発を手がける。現在、企業のデジタル変革を支援する株式会社ゆめみにて取締役CHROを務める。全社的な事業推進、新規事業開発、人事領域全般を管掌。先端的な組織モデルの実践や革新的な制度設計・運用を通じ、事業成長と組織づくりをリードしている。公的機関や急成長スタートアップの経営・人事アドバイザーも務める。各種ビジネスメディアへの寄稿多数。
人材は「コスト」から「投資対象」へ
ーー「人的資本経営」は2020年、経済産業省が発表した通称「人材版伊藤レポート」をきっかけに広く注目されるようになりました。何が大きく変化したのでしょうか?
いろいろな変化がある中で、ひとつ押さえておきたいのは、企業と個人との関係性です。
従来の企業経営では、人材をいかに獲得し、長期的に自社で働いてもらうかが重要視されていました。新卒一括採用や年功序列、終身雇用といった制度がその象徴です。
しかし、近年は企業と個人が対等な立場で向き合い、お互いに「選び、選ばれる」関係性へと変わりつつあります。ジョブ型雇用やエンゲージメントなどが注目されているのは、この流れもあってのことです。
ーー人材への考え方も変わるのでしょうか?
はい、変わっていくと思います。
人的資本を「個人が所有するスキルや経験、知見」とした場合、企業は個人と契約を結ぶことで、その人的資本を活用することができます。これら人的資本は、企業が雇用契約や業務契約を結んでいる間は活用できるのですが、当然その個人が離れてしまうと資本が活用できなくなります。個人においても、自身が所有する人的資本に投資をしてくれる企業を選ぶようになるでしょう。
今後ますます、魅力的な職場環境や成長機会を提供できる企業が選ばれる流れが加速していくものと考えています。
ーー人的資本経営では「企業と個人が対等」という前提があるということですね。
こうした中で、人的資本への投資では何がポイントになるのでしょうか?
「投資によってその人が生み出す価値が最大化されるかどうか」がポイントになってくると考えられます。というのも、これまで人は「人的資源」と呼ばれていた通り、経営上の「コスト」として捉えられていました。
一方で、これからは「人的資本」と呼ぶ以上、人も資本であり、他の資本と同様に「価値を生むための元手」として捉えられます。したがって、投資に対するリターンが期待されるようになります。
たとえば、人事の仕事では、採用や配置、育成などの各取り組みを通じて、人材に投資をしていきます。こうした投資に対して、どのようなリターンがあるのかを見極めることが重要になってくると考えています。
つまり、「人的資源」をいかに効率的に活用するか、という視点から、「人的資本」にいかに効果的に投資し、その資本を増やしながら価値を生み出していくかが、より重要になってくるというわけです。
経済産業省が定義する「人材を資本として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」の本質はここにあると考えています。
ーー投資をするための目的が従来の経営とは異なるのですね。
企業が見極めるべきリターンとは、どういったものでしょうか。
投資に対して、財務にどれだけ影響があったかどうかが大事になってきます。たとえば、採用に関して言えば、「一人当たりの採用単価」がより厳密に見られるでしょう。適切な費用だったかどうかはもちろん、採用した人材が生み出す収益や価値なども重要な指標となってきます。
研修においても、外部委託費と内部労務費を含めた総額に対して「どのような効果があったのか」を測ることが求められるようになってきます。
これまで人事の仕事は、施策を実行が目的化してしまう側面がありました。しかし、今後は各施策に対してKPIやKGIを設定し、それらの指標をもとに施策の妥当性や実施後の達成度を評価する重要性が一層高まるでしょう。
この投資対効果の明確化は、企業側はもちろん、サービス提供側にも新たな変化をもたらすものと思います。今までは、企業も提供側も、目的の明確化やKPI・KGIの設計が不十分だったと感じています。
しかし、人的資本経営への転換によって、リターンを追求しようとする意識が双方ともに高まり、より高い成果を生み出す良いきっかけになると思っています。
人材ポートフォリオ活用で企業成長のボトルネックを解消
ーー従来の人的資源と人的資本の捉え方の違いが明確になりました。
この人的資本という考え方は、取り入れるべき企業とそうでない企業に分かれるものなのでしょうか。
基本的にはどの企業も取り組むべきものだと思っています。人的資本経営の考え方は世界的な共通見解になっていますし、日本でも2023年から上場企業を中心に人的資本の情報開示が義務化されています。
テクノロジーの進化やグローバル化が進む現代において、人的資本経営は戦略実現の成否を左右するものと思っています。
ーーなぜ、人的資本経営が戦略実現の成否を握るのでしょうか。
高度経済成長期など、経済成長が右肩上がりの時代では、たとえ戦略が十分に練られていなくても、過去の延長上で取り組んでいれば何とか成長することができました。しかし、環境変化が激しい昨今、無策な企業は途端に経営悪化に陥ります。より一層、戦略を策定する必要性が増しているということです。
ただ、最近では生成AIをはじめとしたテクノロジーの急速な発展により、短期間のうちに環境変化が何度も起こるようになりました。企業もその変化に応じて戦略を軌道修正していかなければなりません。そのため、一度描いた戦略も、状況に応じて柔軟に見直す必要があります。
このとき、戦略を軌道修正したものの、組織がその変化についてこないという事態が起こります。つまり、組織能力が事業成長のボトルネックになる可能性が高いのです。
だからこそ、企業は環境変化に応じた「事業ポートフォリオと人材ポートフォリオの組み替え」を行うことが重要になります。この取り組みができないと、最終的に競争に後れを取る可能性が高まるでしょう。
ーー今の時代、組織が成長し続けるためには戦略だけでなく、組織能力も重要なのですね。
人材ポートフォリオに馴染みがない企業や人事担当者もいらっしゃると思います。何を意識してポートフォリオ作成や人的資本投資を行うと良いのでしょうか。
まず「企業が将来どのような事業を展開したいのか」を明確にすることが大切です。
この方向性を明確にした上で、事業ポートフォリオを設計します。事業ポートフォリオとは、企業が運営する事業を一覧化したもので、どの分野で成長を目指し、どの分野を強化するかを示します。
次に、その事業ポートフォリオに基づいて、必要な人的資本を見極めます。各事業においてどのような能力を持つ人材がどのぐらい必要なのかを描きます。あるべき「人材ポートフォリオ」を設計していくということです。同時に、既存の人材の配属先やスキル、人数などを分析し、現状を把握することも必要です。
その上で、理想と現状を照らし合わせ、不足している領域があれば、採用や研修、配置などを通じて、人材の獲得や強化などを行います。このような流れで「人材ポートフォリオの組み替え」を行いながら、事業ポートフォリオと人材ポートフォリオを連動させていくのです。
ーー環境変化に応じて、最適な人材ポートフォリオを構築していくことが大事だということですね。
そうですね。つい採用や研修といった具体的な手段から検討しがちですが、まずは目的や目指すべき方向性を明確にすることが大切です。その上で、どのような人材が必要か、どの分野に投資すべきかを見極めることで、より効果的な戦略が立てられます。
中小企業も人的資本開示を通じて企業価値を高める時代に
ーー先ほど、どの企業も人的資本経営を実践すべきというお話がありました。
とはいえ、人事担当者の方々の中には、「人的資本の情報開示」を負担に感じられている方もいらっしゃると思います。情報開示が義務化されていない企業はどのように捉えるべきなのでしょうか?
ここには多少誤解があるかもしれませんが、あるべき姿は、まず人的資本経営を実践した後に、社内外に人的資本情報を開示する流れが適切だと思います。情報開示自体を目的化してはいけません。あくまで情報開示は、実践した結果として行われるべきです。
ただし、人的資本経営に取り組むためには、組織の現状を正しく知ることも必要です。したがって、人的資本の情報開示が義務化されていない企業も、開示まではいかなくとも、人的資本情報を収集すべきだと思っています。
多くの企業では、未だに人的資本情報は基本的なデータ(従業員数や年代、男女比率など)のみにとどまっているのが現状です。この状態では、経営戦略が明確であっても、必要な人材を単なる「数」としてしか捉えられていません。そのため、戦略を実行する際、どんな人材にどう活躍してもらうべきか、の判断が難しくなり、人材活用が十分に行えなくなります。
要するに、事業成長に必要なスキルを持った人材がいるのか、いないのかを把握することが重要なのです。現状を把握することは、組織の課題や弱みを特定するきっかけにもなり、成長を促進するための取り組みへとつながります。
ーー事業成長という観点以外にも、人的資本の情報開示に取り組むことで、得られるメリットはあるのでしょうか。
人的資本開示は多くのメリットをもたらしますが、その中でも「企業価値の向上」につながると考えています。
近年、データや数値で表せる定量的な財務情報だけでなく、数値化が難しい「非財務情報」の重要性が増しています。人的資本もその中のひとつですが、これを適切に開示することが、投資家からの信頼を得る鍵となっています。実は、人的資本開示は市場からのニーズが根本にあるということです。
今後、企業は投資家に対して「価値創造ストーリー」を説明する必要性がますます高まっていくでしょう。価値創造ストーリーとは、企業が保有する資本を事業活動に投入し、環境や社会、さらにはステークホルダーにどのような価値を提供していくのかを示すロジックです。
この中で、人的資本についても、その確保や活用の方法、そしてどのように価値を創造していくのかを明確に説明することが重要視されています。
人的資本は、単なるリソースではなく、持続可能な成長や競争力を支える重要な要素であり、その活用方法が企業価値を大きく左右します。そのため、投資家に対してこのストーリーをしっかりと伝えることが、企業価値向上の鍵となるのです。
こうした話をすると、上場企業に限った話のように思われがちですが、実は非上場の中小企業にも当てはまります。
中小企業は、大企業に比べて知名度やブランド力が不足している場合が多いため、投資家や取引先、さらには地域社会からの信頼を得るためには、自社の価値創造ストーリーを明確に伝えることが非常に重要です。このストーリーをしっかりと示すことで、企業の成長性や社会的意義が伝わり、外部からの評価や信頼が高まることが期待できるでしょう。
海外とは異なる「日本の人的資本経営」とは
ーー人的資本経営は世界的なトレンドで、日本では2020年前後から広まりました。国も推奨している経営手法だと思いますが、海外と比べて特にどこが日本の特徴や難しさとしてあるのでしょうか?
日本における雇用の特徴は、主に「終身雇用」「年功序列」「企業別労働組合」の3つです。これらの仕組みは、人を大切にし、中長期的な視点で企業運営を行うという考え方に基づいており、人的資本経営とも共通する部分があると思います。
しかし、特に「終身雇用」「年功序列」は、実態として、給与が基本的に年齢やライフステージに合わせて決まるため、その人が持つスキルや経験といった人的資本に基づく制度とは言い難い面もあります。
1990年代以降、成果主義が導入され、優れた成果を上げた社員とそうでない社員の給与差が広がりつつありますが、それでも日本型雇用の基本的な仕組みは依然として残っています。
こうした従来の制度が日本ならではの特徴であり、難しさでもあります。日本における人的資本経営は、まさにこうした制度に対して新しい風を吹き込もうとする挑戦の一環だと考えています。
ーー人的資本経営を導入する上で、どんな障壁が考えられるでしょうか?
障壁になることは多数ありますが、「エンゲージメントの低さ」は特に障壁になると考えています。
人的資本経営は企業と社員が対等な立場で向き合い、互いに信頼し、協力し合うことが前提です。その上で、社員が企業の長期的な目標を理解し、共感し、その実現のために自身の能力開発に積極的に取り組むことが求められます。
まさに企業と個人がお互いにWin-Winな関係を築くことを意識して、エンゲージメントを高めることが人的資本経営を成功させる秘訣だと考えています。
人事は青臭く理想を語り、泥臭く調整する
ーー人的資本経営を実践において、中長期の人材戦略を考える人事担当者は、どのような点を意識すべきでしょうか。
私が考えるポイントは、大きく分けて二つです。それは、「経営戦略との接続」と「時間軸を意識した戦略立案」です。人材戦略を実行するには、この二つを意識することが重要だと思います。
まず、「経営戦略との接続」です。企業の人材戦略は、採用や育成、配置など、機能ごとにその計画が立てられます。これらはボトムアップで検討され、最終的に「何となく辻褄が合っている感じ」でまとまることが多いと思っています。
ただ、本来、人材戦略は経営戦略を実現するための重要な手段であるべきです。例えば、企業が新しい事業展開を目指している場合、その事業を支えるためにはどのような人的資本が必要かを先に考え、それに基づいて採用や育成、配置を計画する必要があります。まず、戦略ありきで考えることが大切です。
次に、「時間軸を意識した戦略立案」です。人事の仕事は一年単位で動くことが多いですが、これが一つの課題になっていると考えています。というのも、企業の中期経営計画は通常3〜5年のスパンで考えられますが、採用や育成、配置などの計画は、長くても2年単位で立てられがちです。これでは、企業が中期的に成長を目指している方向性と、人材戦略とが一致しない場合があります。
たとえば、企業が3年後にグローバル展開を視野に入れているにもかかわらず、育成計画が毎年同じ研修メニューを繰り返すようでは、必要な人材を確保できません。したがって、人材戦略を立てる際、現場の計画も長期的な視点で立てることが必要だと思っています。
とはいえ、実際には経営や戦略に携わった経験のない人事担当者も多いのが現状だと思います。そのため、人的資本経営の実践には、人事担当者自身も戦略的な思考を身につけられるかどうかがチャレンジだと感じています。
また、経営チームにおいても、経営トップが人的資本の重要性を認識した上で、人材戦略の立案・推進を担うCHROと、財務面から企業価値を検討するCFOが連携し、CEO・CHRO・CFOの3者が協力することが成功の鍵になると考えています。
ーー人的資本経営の重要性について、現場の理解も徐々に深まっているものの、反発も一定程度生じるのではないかと考えています。ゆめみでは変革を進める中で、どのように取り組まれたのか、また現場からの反発を最小限に抑えるために実践されたことがあればご教示ください。
人的資本経営を実践する中では、長年続いてきた制度を見直す必要が出てくるのは当然のことです。そのため、現場サイドで変化に対する不安や抵抗が生まれるのは自然なことだと考えています。
実際、ゆめみもこの数年でさまざまな変革を進めてきた中で、現場からの反発は避けられませんでした。
その中でも、自己啓発支援を含む福利厚生の仕組みを変更したことは、特に象徴的な出来事だったと感じています。以前、ゆめみには「勉強し放題制度」という、あらゆる学習費用を100%会社が負担する制度がありました。書籍、社外セミナー、実験機材、認定資格の受験など、成長に必要な費用はすべて会社が支出し、さらに業務時間の10%を自由な活動に使うことができました。
この制度は、人的資本への投資という観点では非常に理想的なものだと感じていましたが、実態を調査すると、会社の目指す方向性と必ずしも整合性が取れない投資も見られました。そのため、戦略の方向性とより整合した投資ができる仕組みに改訂したのです。
この制度に魅力を感じて入社した社員も多かったため、反発は非常に強く、変革のプロセスではいくつかの失敗も経験しました。すべてが順調に進んだわけではありませんが、それでも最終的にやり遂げることができたのは、現場と真摯に向き合い、社員の意見をしっかりと聴き続けたことが大きかったと思っています。
また、このプロセスを通じて改めて実感したのは、変革には覚悟が必要だということです。特に、CHROが自ら矢面に立ち、リーダーシップを発揮して変革を推進することが不可欠であると強く感じています。
ーー変革プロセスを振り返ると、改めて人事には何が重要だと思いますか?
私にとって人事は「青臭く泥臭く」であることが大事だと思っています。「青臭く」とは、目指す方向性やビジョンを情熱を持って語ること。そして「泥臭く」とは、そのビジョンを実現するために地道に調整し続けることです。この二つを使い分けながら、実行していくことが大切だと考えています。
さらに、変革をリードする際、自分自身が信じる「志」を明確に持つことが極めて重要です。「志」を明確に持っていないと、途中で心が折れてしまうことがあります。
変革において全員が納得する状態を作ることは非常に難しいと思っています。その過程で抵抗が生まれるのは当然のことで、こうした反発や困難に立ち向かうためには、志をしっかりと持ち、その信念を貫いて最後までやり抜く覚悟が必要です。
その際、私は「51対49」を及第点とし、理想としては6割の賛同者を集めることを目標にしています。この6割という数字は、過去の変革における経験をもとに導き出した指標であり、実務でも非常に重要な基準となっています。
まとめ
人的資本経営の重要性が高まる一方で、その導入に対するハードルの高さを感じている企業や人事担当者が多いのも事実です。
このハードルを乗り越えるために簡単な方法はなく、人事担当者が現場としっかり向き合い、経営とも連携しながら進めていくことが、最終的な事業成長につながっていくことでしょう。
今後の労働人口の減少に伴って、人的資本経営はさらに広がることが予想されます。企業が個人のスキルや経験を活用するだけでなく、投資をすることでWin-Winな関係性を築くことが日本全体の成長にも欠かせません。人的資本経営の本来の目的と向き合い、企業の価値を高めていきましょう。
ぜひ今後の経営戦略や人事戦略にお役立てください。